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命がけでユダヤ人を守り抜いた日本海軍大佐・犬塚惟重の半生

2016年12月11日(日) ニュース

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今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』の主人公は、日本海軍の大佐でありながら、「ユダヤ問題研究家」としても知られる犬塚惟重(いぬづかこれしげ)大佐。陸軍所属で同じくユダヤ問題の研究家でもある安江仙弘(やすえのりひろ)大佐とともに、世界中で酷い扱いを受けていたユダヤ人の保護活動を続けていました。犬塚大佐は一体どんな思いで彼らを見つめ、守り抜いたのでしょうか?

ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐

1982年3月12日付けエルサレム・ポスト誌にタブロイド判1頁を費やして次のような記事が掲載された。

1941年3月、このシガレット・ケースは39年以来、上海でユダヤ関係機関長であった犬塚惟重海軍大佐が、300名のユダヤ神学生を日本占領区域に収容してくれたこと、1万8,000名のドイツ、オーストリー、ポーランドからの避難ユダヤ人を救ったことへの感謝の印に贈られたものである。

 

このシガレット・ケースは犬塚未亡人から米国のラビ・トケイヤーの手を経て今、エルサレムのヤッド・バシェムに贈られ、大虐殺追悼記念館の収集品に加えられた。

 

(寄贈)式はアラド総裁事務室で地味に挙行され、犬塚大佐がこの贈り物を受け取るまでの経緯を総裁が述べ、ユバル副総裁が1948~49年に上海で見聞した犬塚大佐は学者肌で人道主義の寛大な日本士官で、特にユダヤ民族の更生に力を尽くした非凡な人物との評価を披露した。

 

また、彼の指揮によって、日本人学校校舎が避難ユダヤ人たちの宿舎になり、病院建設に協力したり、シナゴーグ(ユダヤ教教会堂)建設工事にセメントを融通するなどの助力を惜しまなかった。

上海へのユダヤ難民

上海に最初のユダヤ人難民が流入したのは、1938年秋、ナチスが当時ヨーロッパで最大のユダヤ人口を持つオーストリアを併合してからであった。その後、チェコ、ポーランドとドイツの支配圏が広がるにつれて数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるをえなくなったが、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは入国ビザの発給を制限していた。

ユダヤ難民がビザなしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備地になっていた虹口ホンキュー地区だけだった。ここにユダヤ難民がどっと押し寄せたのを、現地ユダヤ人らが、もとの小学校や中学校などの無人の建物に収容して、給食や生活保護を行うことにしたのだった。船が着くたびに上陸するユダヤ難民はたちまち1万8,000人に膨れあがった。

1939(昭和14)年夏、犬塚大佐は東洋一と言われた17階建てのブロードウェイ・マンション・ホテルの16階に事務所兼住居を定めた。25畳ほどのリビング・ルームにベッド・ルーム、クローク・ルームなどを備えたスイート・ルームだった。謀略嫌いの海軍の工作機密費はわずかだったので、犬塚は自分の退職金をすべてユダヤ工作につぎ込むつもりだった。

海軍武官府からは贅沢だと非難する向きもあったが、哨兵の立つ武官府ではユダヤ人達が気安く出入りしにくく、また極東のユダヤ財閥の首脳部に応対するためには、こうした見栄も大切だった。

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