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砲火は交えど海軍の義は守る。伊東長官と丁提督、日清武士道物語

2016年12月25日(日) ニュース

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かつて「眠れる獅子」と恐れられた清(中国)に戦いを挑み、勝利した日本。そんな日清戦争は数々のドラマを生みましたが、今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されているのは、国は違えど東洋の「武士道」を通して兄弟同然の仲であった両国艦隊のトップ、伊東祐亨と丁汝昌の物語です。世界が賞賛した「海の武士」同士の固い絆とは?

海の武士道~伊東祐亨と丁汝昌

明治27(1894)年9月17日の日清戦争における黄海海戦は、1866年にオーストリアとイタリアが戦ったリッサ海戦以来、およそ30年ぶりの艦隊同士の決戦であった。その間にそれまでの木造艦に替わって、鉄や鋼で防備を固めた装甲艦が中心となっていた。

装甲艦どうしの艦隊決戦がどのようなものか、世界の注目を浴びて、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア各国の軍艦が、観戦のために黄海に集まっていた。

勝利は清国7割日本3割というのが世界の大方の予想だった。なにしろ清国艦隊の主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7,335トン、世界最大級、最新鋭の巨艦であった。一方の日本の主力艦「松島」「厳島」「橋立」は4,278トンと半分近くの大きさでしかない。

しかし日本艦隊は高速性を生かして二手に分かれて清国艦隊を挟撃し、小口径ながら速射砲で砲弾を雨あられと浴びせかけた。「鎮遠」に乗っていた米国顧問マクギフィン海軍少佐は次のように記している。

日本艦隊が、まるでひとつの生きもののように、…有利な形で攻撃を反復したのには、驚嘆するほかなかった。清国艦隊は守勢にたち、混乱した陣型で応戦するだけだった。
(『士魂の提督 伊東祐亨─明治海軍の屋台骨を支えた男』p448)

4時間余りの海戦で、清国艦隊は4隻が撃沈され、1隻が擱座(座礁)自沈したのに対し、日本艦隊は2隻大破、2隻中破と損害は大きかったものの1隻も失わなかった。日本艦隊の完勝だった。

「長官、ご無事でありましたか」

兵員の志気においても格段の違いがあった。旗艦「松島」は「鎮遠」の30センチ砲弾が左舷に命中し、鋼鉄の舷板が10メートル余り吹き飛ばされて、艦骨が露わになった。28人が戦死、68人が重軽傷を負った。死屍累々として、鮮血が甲板に溢れた。

連合艦隊司令長官・伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき)は破損状況を見聞するため、艦橋から甲板に降りた。負傷者収容所の横を通りすぎようとした時、顔面が火傷で紫色に腫れ上がった水兵が伊東を認めると、力を振り絞って足元に這い寄り、「長官ご無事でありましたか」とかすれた声を出した。

伊東は、その気持を察し、その水兵の手をしっかりと握り、「伊東はこのとおり大丈夫じゃ、安心せよ」と、二、三度足踏みをしてみせた。それを見た水兵は、さも安心したように「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万歳!」と、かすかに言い終えると、頭を垂れて息絶えた。伊東は頬に涙を伝わらせながら、しばらくはじっと水兵の手を離さずにいた。

一方、清国艦隊の最左翼にいた済遠」は、日本艦隊から砲撃を受けると艦首を巡らせて、逃走を図った。「鎮遠」の艦長・林泰曾は憤って、逃げる「済遠」をめがけて砲を放ったが、「済遠」は脇目もふらず遁走した。

海戦が終わって敗残の北洋艦隊が翌朝、旅順口に入港すると、「済遠」は無傷で安閑とこれを迎えた。怒った丁汝昌提督は、「済遠艦長を軍法会議にかけて即日銃殺刑に処した

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